クリスマス・クラッカーと「豆の王」

フランスのパピヨットとどこかでつながっていると思える、イギリスのクリスマス・クラッカー。
わずかとはいえ、火薬が仕込んであるのに、何事もなくイギリスからやってきました。
友人の友人、ロンドンに住む、日本語が達者なベルギー人女性が、2種送ってくださいました。
彼女には以前、「クニュ」のことでもお世話になったことがありました。


クリスマス・クラッカーもパピヨットも、ちょうちょ結び(キャンディー包み)がポイント。
両端をエイッとひっぱることで、パンッ!と破裂音がします。
くびれた部分をしっかり押さえて、引っ張らないと、不発のまま終わります。


中から出てくるものは、言葉の書かれた紙と、紙の王冠、そしておもちゃというあたりが定番です。
今回のクリスマス・クラッカーはどちらも言葉の紙には、なぞなぞが書かれていました。
そして、薄紙で簡単に作られた王冠は、ちいさく折たたまれて、はいっていました。

私は「言葉が書かれた紙」と「紙の王冠」に興味をひかれています。
それは、それぞれ「辻占」と「王様のケーキ」につながるからです。

「辻占」については、「クリスマスのパピヨット」のページでも触れましたが、
「王様のケーキ」に添えられる「紙の王冠」については、
クリスマスの12日間の最終日、「十二夜」の行事の名残ではないか?と気になっています。
「十二夜」とは「エピファニー」、この日を1月6日と決めたキリスト教によってすりかえられた、
カトリック以前の、古代的な豆の王様、「代理王」の習俗をさえ思い起こさせます。

「代理王」とは普段聞きなれない言葉ですが、「王様のケーキ」とは切り離せない話です。
1年の節目にあたって、人々の上に君臨する王(神)であればこそ、念入りに再生、蘇生しなくてはならず、
本来、力の衰えた王は殺され、新しい王の誕生こそが、もっとも生命力に満ち溢れた王権の継承となるわけですが、
権力者は王権を手放さずに、この時期を無事に乗り越えるため、「代理の王」を立てます。
「代理の王」「豆で選ばれた王」「豆の王」がマツリの期間だけの王となり、殺されると、もとの「王」が復位します。
擬似的な(割引いた形で)死と再生を行い、新しい年を迎えるというわけです。
それが行われるのは、やはり太陽の再生ともいえる、冬至をはさんだ期間だったと思われます。
そして、王様のケーキが丸いのは、太陽を表すからともいわれています。
フェーブ(豆)だって、「豆の王」からの直系の血筋なわけで・・・。



この呪術的な、文明人からみたら野蛮に見える「豆の王様」の儀礼は、イギリスの宮廷にも残っていたようです。
もちろん、その頃には、本来の血なまぐさい儀礼部分は忘れ去られ、ちょっとした余興となっていたことでしょう。

ざっくりと言えば、この「豆の王」がかぶったのが、紙の王冠なのだと思います。
ただのどんちゃん騒ぎ(混沌)の中にも、忘れ去られたはずの儀礼のエッセンスが、主役級で君臨して、
こちらへ合図を送ってきているように感じるのです。

キリスト教側から見れば、生贄のような儀礼も、無秩序などんちゃん騒ぎも好ましくなく、代理王の話は
光の子として誕生したイエス・キリストを祝福する、オリエントの3人の王の話にすりかえました。
すり替えられてもやはり!パーティーなどのどんちゃん騒ぎはやめられないわけですが・・・。
要は、マツリの間だけの「豆の王」をパロディーにしているようなものですね。

シェイクスピアの「十二夜」は、内容的には十二夜の行事と関係ないと言われますが、
人が入れ替わり、混沌とした人間関係のあとに、正常な、そして幸せな結末がやってきます。
アンバランスをバランスに調整する装置としての、「豆の王」的な仕掛けがあり、十二夜目のどんでん返しで幕を閉じます。

「王様のケーキ」はこの十二夜目に食べるケーキというわけで、あなどれませんよ、皆さん!
まだまだその奥があるのですから。

日本のマツリの中にも、そのような呪術的な死と再生の儀礼が形を変えて残っていると感じる時があり、
人間の思いは同じなのだと、つくづく感じるのです。


このクラッカーの中のおもちゃは、セロファン製の魚。これ、占いなのです。結構おもしろい!
以前いただいたことがあった魚のFORTUNE TELLERは、鱗や文字なども印刷され、よく出来ていました。
手の平に乗せたときの動きによって、占うのです。たとえば、頭のほうがうごくいたら「嫉妬」という具合です。




参考: 『誰も知らないクリスマス』 舟田詠子著 1999 朝日新聞社
『La Part Maudite』 Georges Bataille


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2011.1