越後土産その1*水原椿餅

江戸後期につくられた「越後土産 産物見立取組」にはお菓子もいくつか番付にあがっています。
いくつかあるうち、まず上の取組表を見てみました。

「高田粟飴」は十返舎一九にも紹介され、新潟県内でも有名、健在です。
「高田翁餅」とあるのも今の翁飴(下のほうに写真)のことかと思いますが、
高田には他にも翁飴をつくる古いあめやさんがあります。
そして飴といえば、私は長岡の飴最中が好きですが、他県の方には珍しいようです。

「高田粟飴」と相対しているのは「沼垂あめ」。
沼垂(ぬったり)は今は新潟市の一部ですが、江戸時代の資料をまとめた「越後風俗志」に記述があります。
「寛永年中蒲原郡沼垂町糖屋(あめや)九郎三郎なる者発明して清潔の水飴を製す
領主新発田の溝口家より将軍家へ献せられし事あり」
現在はもう絶えたようですが、たどってみようと思います。

さて、先日「水原椿餅」を求めて、水原(すいばら)へ行ってきました。
今も素朴な姿で残り、3軒ほどのお店で見かけましたが、昔はもっとつくるお店があったようです。
「椿餅」といえば、椿の葉で上下はさむようにつくる、平安の昔からある大変古いお菓子を思い浮かべますが、
この椿餅は小麦粉が主になっており(米粉も使うのですが)、薄甘いさらっとしたういろうのようなお菓子でした。
形は棒状、竹の皮に包まれるというのが水原の椿餅です。
なぜこんな名前がついたのかは不明ですが、
元祖は幕府直轄地だった水原の代官所出入りであったであろう「大月屋」だそうです。


とても鄙びたお店「松月堂」さんの「翁椿餅」。お店にはこれと新潟の冬の菓子「水ようかん」のみ。
同じ県内の長岡ではほとんどの人が知らないほど無名ですが、水原では愛され続けたからこそ残った真の郷土菓子です。
幕府米を送り出す拠点となった水原の、お米ではなく小麦粉が主なお菓子。なんだか不思議です。
現在では水原といえば、白鳥が越冬のため飛来する地で有名。お菓子も白鳥の名のついたものばかり目立ちます。

椿餅の由来には、水原常陸介親憲が、藩主上杉景勝の面前で急死した際、平時にも関わらず、
その懐中に、兵糧として味付きの餅を忍ばせており、景勝がそれを賞賛したという逸話があります。
現在の椿餅のようなものだとすると、兵糧としては日持ちに問題があるため、
移封先の米沢で、今では郷土菓子として定着している「くるみ柚餅子」に近いものかと想像します。
椿餅や柚餅子の伝播を考える時、越後水原城主から、越後上杉藩の移封にともない、会津藩、米沢藩と移動していった
水原常陸介親憲という人物に、親近感を覚えてしまいます。

余談ですが、親憲は、大坂冬の陣での功により、徳川秀忠より感状を賜ったのですが、名前を書き違えられました。
「すいばら」と聞いて、秀忠は「杉原(すいばら)紙」で有名な「杉原」の字を書いたとか。
以後、文字は「杉原」に変えたといわれ、米沢にある墓には杉原常陸介親憲となっています。
実はこちらの「杉原」も「杉原餅」という杉原紙を入れた餅があったそうで、なにかと菓子に縁のある人物なのでした。


高田の翁飴。翁飴は四角が定番。

「越後土産その2」はもっとお菓子がたくさんです。 七尾の椿餅加茂の椿餅会津の椿餅もご覧ください。

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2005.12 , 2009.8追加