
*餅花・まゆだま*
「餅花」「まゆだま」について、下記に少し整理してみました。
また、それぞれの画像より、
かわら版「餅花からお炒り」、2004ミニ個展「雪国の辻占とまゆだま」、2005「春展」へリンクしています。
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上の画像から2004年ミニ個展へ、下の画像から2005年春展へ
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* 「餅花」「まゆだま」について *
あくまでも私の主観的な考察です。未整理で、思いつくまま更新・修正中ですので、転写等ご遠慮ください。
小正月(望月)の願い事

小正月は1月15日です。(古来1日の始まりは日没後からでしたので、14日の夜が小正月のはじまりです。)
旧正月とも呼ばれるのは、旧暦で、満月にあたるこの日に、新年の「マツリ」をしたためで、
「望」の日は、「朔」の日とともに暦の上で重要な日でした。
小正月の半年後の7月15日はお盆であり、「盆と(小)正月」は一年の中で軸となるハレの日なのです。
正月(大正月)は年神様(この神は「自然」の擬人化ともいえるのでは?)とともに、
私たちが新しい命をいただく時で、それは「トシダマ」=「鏡餅」が象徴的に表わしています。
正月は命の再生の呪いの日でした。
そして、小正月は私たちの命をつないでいく穀物の「マツリ」の日なのではないでしょうか?
「予祝」という、予め一年の農事を仮に演じて、この通りになってくださいと豊作を願う、「お呪い」をするのです。
現在も、ひと月遅れの2月15日や、「旧暦最初の満月の日」に小正月行事をしているところがあります。
小正月には、「餅花・まゆだま」の他にも、小豆粥などによって作物の豊凶を判断する「年占」や、
「左義長(どんど焼)」「鳥追い」など病気・災厄をとりのぞこうという行事、
「成り木責め」「庭田植え」など作物の豊かな稔りを模擬的におこなう行事、
粥杖・祝い棒での「嫁たたき」で子宝を願う行事等が行われます。
米に霊力を感じる日本人
日本人には米を中心にした農耕儀礼が多種多様にあり、お供物には米が欠かせません。
米はもちろん、粟・稗、蕎麦、魚、繭でさえも、米の粉や餅で象り、豊作を願う「餅花・まゆだま」は、
日本人がいかに米に対して特別の霊力を感じているかがわかります。
白米がハレの日だけの食事である時代でさえ、ここぞとばかりに米を使ったこの行事には、大変興味深いものがあるのです。
そして、米が手に入らない人々や、米がとれない地域では、木を削ったり、そば粉や小麦粉などで代用したのではないでしょうか?
餅花・まいだまはクリスマスツリー?
現在、「餅花・まゆだま」を家でつくり、飾ることは稀になり、消えつつある習俗のようです。
木の枝に餅や団子をつけた「餅花・まゆだま」は「日本のクリスマスツリー!?」というのが、
新潟でまゆだまを調べ始めた時の私の印象でした。
実はクリスマスツリーも、もともとは年の変わり目(冬至)に新しい生命を象徴する森の木を飾るという習俗が
キリスト教化されたものですから、あながち外れた印象ではなかったわけです。
この「小正月の豊穣のお呪いの枝」の呼び名も形態も、地域によってかなりバリエーションがあります。
米でつくる「ハナ」、木でつくる「ハナ」
たとえば、古来より良米の産地であった、琵琶湖周辺の近江に色濃く残る「オコナイ」という小正月的マツリがあります。
この地域一帯では、「まい玉・餅花」といわれる「ハナ」が作られます。どちらの名称も使われ、形態もそれぞれです。
また、江戸時代末期の年中行事の様子を、長岡藩士によって書かれた『越後長岡年中行事 懐旧歳記』にも
「年越の祝ひ、門前には削り掛けをさげ、家には餅花をつける。これを舞玉とも繭玉ともいふ」とありますし、
同じく越後塩沢の縮仲買商、鈴木牧之の書いた『北越雪譜』(1837年)↓の中でも、「餅花」について書かれており、
「餅花」「蚕玉(まゆだま)」どちらの呼び名も使われています。


「餅花・まゆだま」を形態的に大雑把に区分けしてみると、
シンプルに餅だけをつける形態は西日本に多く、「餅花」「花餅」「柳餅」などの呼び名があります。
それに対して、餅・団子の他、種もの(餅皮)製、木製、紙製の飾りもつける形態は、東日本に多く、
「まゆだま」「ものつくり」「作かざり」「イワイ木」「ダンゴ木」「ダンゴサシ」などの呼び名があり、同時に「粟穂・稗穂」もつくられます。
そして大変興味深いのは、九州南部(種子島・奄美含む)の「メノモチ」「メーダゴ」「ダゴ花」「ゴーサシ」「ナリムチ」などで、
東日本に近い形態も見受けられますし、他の小正月行事も、かなり古い形態を保っています。
生業の木
気候的要因もあり、東日本には稲作に適した地域が少なく、そのため、他の穀物生産や農耕以外の生業も大切ですから、
それらすべてを含めて、命をつなぐモノに対して、さらにその道具に対しても、マツリをしたように思われます。
ですから、「まゆだま」に見られるように、稲穂だけでなく、多種多様なモノが木の枝につけられるのです。
その枝をみれば、その地域の人々がどのようなモノを生業とし、どのようなコトを願ったのかがわかるのです。
使う木は、西は柳の木、東はミズキが多いようです。
柳はしだれた様子が稔った穂を表わすためのようです。
ミズキは、日常の暮しに役立つ木ではないのですが、マツリに多用される木です。
切ると水が滴ることから火伏せに用いられ、木肌が白くやわらかいことから削りかけの材ともなり、
小正月の頃には枝先が赤くなり、枝が細かく分かれ、ひろがっていることから、まゆだまに最も適した木で、
「団子の木」と呼ばれるほどです。
「マイダマ」は「米(マイ・メイ)玉(魂)」?
「まゆだま」は「繭玉」ともされ、繭の収穫?を願うものとの捉え方が一般的ですが、
近江では、「マイダマ」、新潟などでは「マイダマ」「メーダマ」などとも呼ばれ、「米玉」を連想させ、
予祝の枝に団子や餅をつけることを「田植え」、取り入れる時を「稲刈り」と呼ぶことからも、
これが本来は「稲作」を中心とした、五穀豊穣を願う予祝行事だったことがわかります。
米は日本人にとって、願いを託すのにふさわしい、特別に霊力のある穀物でしたし、
江戸時代には米の石高が藩の力を示す経済基準ともされました。
そのため、身分に関わらず、米の豊作は一番の願いだったのではないでしょうか?
これは、あくまでも私見ですが(裏づけになる資料はありません)、
「まゆ(い)だま」とは、米(マイ、メイ)+霊=魂(タマ)なのではないか?
正月の「トシダマ(自然、命+魂)」に対して、小正月の「マイダマ(米+魂)」。
命そのものの再生の呪いに対して、命をつないでいく米(穀霊)の再生の呪いを大切にしたのではないでしょうか?
米の霊力は日本人にとって、最もたのむべきものであったと思うのです。
「繭玉」地域では、「米」の霊力で「繭」の予祝をする。
稲作に向かない気候の地域では、貨幣社会が浸透してく過程で、
現金収入をもたらす養蚕が、生業の中に大きなウエイトを占めるようになっていったのではないでしょうか?
「繭があたる」ことを願う気持ちが、本来米の豊作を願う「まいだま」行事にぴったりとはまって、
「マユダマ」という音が近いこともあり、「繭玉」であるという認識が定着したのではないか?と思います。
養蚕は古代からありましたが、貨幣経済の拡大によって、大きな存在になり、
「米」の粉をつかって「繭」の予祝をすることが日本中にひろがったのではないか、と思います。
換金可能な繭、その形が両替商(現在の銀行)を表わす分銅の形であることからも、
いかに繭(絹)=貨幣(金)の意識が強かったかがうかがい知れます。
ただ、養蚕にかかわる予祝行事は、小正月だけでなく、養蚕神の眷属である馬の日、初午に繭団子を供えたり、
蚕を掃きたてる直前、五月の初め頃に団子をつけた笹を奉納したり、また東北のオシラサマ信仰など、単独で多種多用に行われており、
そのような地域では、「まゆだま」=「繭玉」という認識は今も薄いようです。
越後では、絹より麻の織物
これに対して、越後では律令制の時代から、税を越後上布で納めており、
苧麻(ちょま・からむし)という植物を育て、糸を紡ぎ、農閑期の冬に上布・縮を織り、晒しました。
「繭=絹」とは別の、麻の織物である越後上布、縮という生業があった越後で「まいだま」「舞玉」と呼ぶことは興味深いことです。
『越後長岡領風俗問状答』(1813年前後)によれば、「稲穂、粟穂や目出度物の形したる煎餅などを飾る」、「餅花」の他に、
「藁だてふもののうち入れおき、蚕養うまねびして祝ひ侍る」というように、枝にはつけない「繭玉」もあり、
さらに、「餅花をも繭玉をもなべてまい玉と唱えり」との記述あります。
越後と近江は「米玉」
「まい玉」という呼び名が多く聞かれる地域、少なくとも越後と近江では、
「まい玉」は、「繭玉」の変化した言葉でなく、「米」そのものの予祝を表わしている言葉だと思うようになりました。
『北越雪譜』によれば、「餅花」が江戸時代初期にすでには諸国にあるということですし、
越後においては、江戸後期には今と同じような餅種の「まゆだませんべい」があったことが記録されています。
これからも少しづつ手探りで、このお呪いをしていた人々の願いとその象ったものについて、より深く知りたいと思います。