
寿賀台の砂糖菓子
以前、鯛の砂糖菓子をご紹介してから、ずいぶん経ってしまいましたが、
今回は、佐賀の
寿賀台といってもすでに、昭和のうちに絶えてしまったそうですが、
シュガーロードといわれるこの地域独特の、砂糖のみを使ってつくられていた婚礼菓子です。
一般的には「島台」と呼ばれるものですが、高度な糖菓技術を駆使して仕上げられた、
他の地域にはない豪勢な島台です。砂糖の価値が落ちてしまった今となっては、忘れさられようとしていますが…。
この寿賀台に使われていた砂糖菓子を、佐賀出身の友人が、地元ということもあり、
お菓子屋さんに無理を聞いていただき、つくっていただいては、少しづつ持ち帰ってきてくれます。
「口砂香(こーさこ)」が人気の武雄市北方町の福田製菓店さんが、寿賀台用の砂糖菓子の型をお持ちでしたので、
今回特別に「尉と姥」(「おのえのじいさん ばあさん」と呼ぶ)をつくっていただきました。
福田さんご自身は、寿賀台をつくられたことはないそうですが、
店売りの砂糖菓子のほうは普段からつくり慣れていらっしゃるので、注文に応じていただけました。
砂糖菓子の彩色は、昔より淡く、部分的にとどめているとのことです。
少し見えている鯛は佐賀の別のお菓子屋さんのもの。2、3年前のものなのですが、鯛があったほうが寿賀台らしいので一緒に。
菓子型は、お菓子屋さんが廃業の際には、地域のお菓子屋さん同士で譲り受けるのが普通でしたので、
そのような機会が一度ならずあったため、砂糖菓子の型は、陶器型の他に、瓦型(唐津などで焼かれた)、木型があるそうです。
陶器型は、土地柄弓野人形の型をつくる地域でつくられたそうです。
製作者の名入りの型もありますし、土人形と砂糖人形の関係は興味のある点です。






photo by N.Takemoto

髷の毛筋までちゃんとわかるんです。
では、実際に寿賀台はどのように仕上げられていたのでしょうか?

写真提供:馬場製菓
嬉野市塩田の馬場製菓さんが昭和62、3年につくられた、最後の寿賀台の写真だそうです。
大きめの松が立てられ、その前にさまざまな有平細工や、鯛や恵比寿大黒、尉と姥などの砂糖菓子を配置します。
馬場製菓さんでも、普段から店頭に砂糖菓子や「こーさこ」が並んでいるそうです。下左は「和泉式部」。
こうして昔ながらのお仕事を続けていらっしゃるお菓子屋さんは大変貴重な存在ですね。



写真提供:村岡総本舗
こちらは伊万里の栗副製菓舗(現在は京都へ移住)さん指導・製作。
佐賀での菓子まつりのために、村岡総本舗さんの熱意もあって実現した貴重な復元寿賀台だそうです。
写真で見せていただくだけですが、黒松に掛けられた大きな緑の有平の帯が、熟練の細工を伺えます。
友人は、自分の育った土地の消え行く菓子たちを、記録しておきたいという気持ちを持っており、
また、お互いの出身地が佐賀、新潟という、現在金花糖が残る数少ない地域ということもあって、
私に貴重な砂糖菓子を託してくれます。
激減してはいるものの、今ならまだ技術を持つ方が現役でいらっしゃるので、
これからも、佐賀の砂糖菓子について、友人の取材を写真中心にここでご報告していけたらと思います。
南蛮菓子由来ということで、大航海時代に持ち込まれたと思われる金花糖。
その中でも中空のもの(「ガラもの」)は、京都、静岡その他、そして最近まで健在だった東京でも職人さんが途絶えてしまいました。
板状のもの(各地に)、中がつまった小さいもの(会津など)はまだまだ健在です。
中空の金花糖が残ることを現在確認できているのは、佐賀の他に長崎、福岡、石川、新潟などの県で、海のルートの伝播を感じますし、
いずれも行事や信仰と深く結びついていたことも大きな要因だと思います。
さらに、ルーツの源であるアラブ、そしてアラブの支配を受けたスペイン、さらににスペインの支配地域だった
シチリアやフランドル、南米(メキシコなど)に、この「型に砂糖液を流した中空の造形」の砂糖文化が行事と直結して今も残っています。
日本と同じように、大航海時代の伝播と思われます。
同時に中国、台湾にも現存することが写真だけですが確認できるので、今後の研究課題と思われます。
参考:『肥前の菓子 シュガーロード長崎街道を行く』村岡安廣 著 佐賀新聞社
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