
弘前 大阪屋の「冬夏」
いつも「ふきよせ」のことが頭にある私に、これまでにない進展となる
大阪屋さんの「冬夏」との出会いがありました。
東北地方の企業の広報誌で紹介されていた大阪屋さんの記事の中の、小さな写真に目が釘付けに。
子供の頃の「ふきよせ」とは「違うけれど、同じ!」という思いで、
大阪屋さんのご主人にお話をお聞きしたい、それだけのために弘前へ出かけたのですが、
弘前まで行ったからこその、さらなる発見もありました。


「冬夏」も「竹流し」(右)も献上菓子でした。どちらもごまかしの効かない、菓子の深い歴史を思わせる菓子です。
大阪屋さんは、1614年からの大坂冬の陣・夏の陣の後、弘前へのがれて来る以前のこと
大阪でのことは、激動の時代でしたし、不明のようにおっしゃっていましたが、
大阪で武家の家柄だったのでは?と想像します。武家のたしなみとしての茶の湯、
それにつらなる菓子づくりを、大阪屋さんのご先祖もされていたのではないでしょうか?
「冬夏」の命銘の由来も、「冬の陣、夏の陣を忘れるな」とお聞きし、ご祖先のご苦労が偲ばれます。
また、激動の時代を乗り越えて、菓子づくりに携わってきた大阪屋さんのご先祖にとって、
この菓子は、その特別な思いを託すにふさわしい菓子だったということでしょうか?
ご主人によれば、この菓子は一般には「かるやき」と呼ぶのだそうで、
その製法を伺ってみれば、昔ながらのまったくの手作業と勘で、手間と時間のかかるものです。
昔ながらの製法だけに、この菓子の特徴や、その食感を生み出す工程がよくわかりました。
また、シンプルではありながら、この製法を今、そのままできるお菓子屋さんは少ないのでは?と思え、
この種の菓子が絶えてしまっている所以も理解できるように思いました。
献上用として、常に種を準備し、ご注文のあった時には、すぐに仕上げて納められるようにされていた
とお聞きし、ほんとうに頭が下がる思いがしました。
近年旧藩主家からのご注文も減ったため、作業が途絶えることによって、技術が絶えることがないよう
店売りもするようになったそうです。長いうちには、米の質が落ちて、つくることができない時もあったとか。
大阪屋さんが絶やすことなく、少なくとも江戸中期からの製法を保っていらしたことで、
長岡などでは庶民の菓子として残っていた、そのルーツに出会うことができました。
各地で消えたこの「かるやき種」の菓子のひとつ、私の「ふきよせ」への疑問もとけたわけです。

そして、もうひとつ。店頭に並ぶ「うば玉」にも心底驚きました。
私の思い出の越後のお菓子が2つも、店頭のショウケースの中に現役で並んでいるわけですから!
初めて訪れたお菓子屋さんなのに、親しく感じられ、不思議な気持ちになりました。
「うば玉」は平戸でも、松浦家所蔵の『百菓の図』より、最近になって、再現されていると聞きます。
同じ菓子が、旧加賀藩地域では「千歳」、越後小千谷では「千歳」とも「うば玉」とも呼ばれており、
日本海側の交易は、こうした古い菓子たちの分布によっても、感じることができます。
*
軽くさっくり、でも口の中ではかなく消えていく「冬夏」は、餅菓子の究極のように感じます。
この忘れがたい菓子に、いろいろなことを教えられました。
そして、なにより、大阪屋さんへ敬意を表したいと思います。

創業寛永七年(1630)。弘前城近くに店を構える。
一番上の写真の「冬夏」の後ろは、韓菓の「油菓」。
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